不発弾たち

戦争は今も続いている。

一秒たりとも休むことなく。

誰に知らされることもなく。

結局、今も昔も何も変わっていない。

辺りを見渡してみればどこを向いても、道端の石ころみたいに恐怖は転がっている。

きっと逃げ場なんてないのだろう。

 

 

 

どこにでもある普通の小学校。

それぞれの教室ではほとんどの児童が規則的に並べられた机に着席している。

そこのいる児童たちは皆一様に、爆弾を持たされている。

その数や大きさや形は様々で、十人十色のそれを彼らは所持している。

捨てることは許されていない。

児童たち自身にはそれが一体どんなものなのか知らされていないが、なんとなく危険なものであることは多くの児童が無意識のうちに察知している。

児童に爆弾を持たせているのは他の多くの大人たちであり、大概は彼らの両親である。

親たちはそれが危険で問題のあることだと自覚しているが、残念ながらそれ以外に我が子を育てる術を知らないようだ。

教師たちも学校という場所が本当の目的を果たすことにおいては、そのことをあまり問題視していない。

やがて児童たちに画一主義の基礎が身に付くのと同時期に始まるのが、児童同士の爆弾の押し付け合いだ。

爆弾の負担はたとえ正体が分かっていなくとも、何もせずにジッと耐えられるような並大抵の重みではない。

しかし、かといって捨てられるものでもない。

だから彼らは他の児童に自分の爆弾を背負わせるのだ。

受け渡しの方法としては、主に以下のものが挙げられる。

まず一つは、誰かに爆弾を渡された時にされたことを他の児童にも同じようにすること。

もう一つは、爆弾を渡された時に抱いていた感情と対になる感情を他者から得ること。

これらは爆弾の渡し合いが始まってから、もっとも早い段階で児童たちが身に付けるものだ。

また一度成功してしまえば何度でも容易に再現することができる条件なので、日常的に大人から爆弾を受け取らなければならないような環境に置かれている児童にとっては、必修技能であるといえる。

また授業やクラス活動などで悪い成績を出したり目立つ失敗をしたりした時などにも、教師が児童の劣等感に混入させるという手法で、爆弾の移動が行われる。

これは学校側が呈示する課題には真剣に取り組まなくてはいけないという思考を児童らに植え付けるためである。

ここまで述べた方法で関わる児童の人数は渡す側も渡される側も一定ではないが、基本的に渡される側の人数が渡す側の人数を上回ることはない。

この傾向は入学以来絶えずなされてきた画一主義教育の賜物であり、どのような場合においても多数派と少数派の間には絶対的な力関係があることをすべての児童が学習しているがために、このような人数関係での爆弾処理が標準化しているのだと思われる。

さて、こうしたことが繰り返されていく内に、爆弾を渡される児童が決まってくるようになる。

押し付け合いの中で何度も渡される側に回った児童は、他の児童から「爆弾を渡されるべき子供」と認識され、前述した多数派と少数派の遍満によって一方的な立場に追いやられてしまうのだ。

この段階まで進めば渡す側の児童は教職員と保護者が設定した、基礎学力を除いた臭学校在籍中に修めるべき教育のノルマはほとんど終わっているといえる。

つまり学校という場所の本当の目的とは、この先幾度となく経験することになるであろう他者との競争の中で、自分の内的負担を他人に押し付けることで解消し、競争社会を強かに生きていくための力を身に付けさせることなのだ。

そのために教育機関は爆弾を捨てることを禁止し、徹底した画一主義教育を行っているのだ。

爆弾を捨ててしまえば児童の負担は無くなるが、それでは児童たちが学業に積極的になる理由が損なわれてしまい、結果的に上昇志向の無い人間が出来上がってしまうというのが、彼らの考えだ。

画一主義を浸透させるのも「渡される側の児童」という存在を作るための手引きであると同時に、爆弾を放棄した児童を異端(少数派)とし、そこに他の児童の爆弾が集中するような構造を作るためでもある。

では運悪く爆弾を背負いすぎた児童はどうなるのか。

基本的に親や教師は児童に目立った障害が見られない内はなんの干渉もしてこない。

それが正しい集団教育の在り方だと信じているからだ。

児童が正常な学校生活を送れなくなって初めて、教職員による対応が始める。

といっても精々別の教育環境への移動を勧めるくらいなのだが、果たして学校に通えなくなるほど重圧を負わされた児童が新しい環境に適応することができるのかどうか、甚だ疑問である。

そもそも最初から対応策やアフターケアなどは考えられていないのだから、誰にどうすることもできないのは至極当然のことだ。

一部の犠牲を払って礎にするということこそが、これまで人類によって連綿と続けられてきた教育の、最も根源的な本質なのだ。

こうして持つ者と持たざる者に分けられた児童が月日を重ね、ある程度の年齢にまで達したところで、押し付けたり押し付けられたりといった彼らの行為はピタリと止まる。

背負っていた爆弾が体に定着したのだ。

こうなると誰かに爆弾を渡したり、渡されたりすることはできなくなる。

後はそれぞれの重みに耐えながら一生を送っていくだけだ。

耐えられなかった者は、やがてそれを爆発させる。

爆発の規模は一定ではないが、基本的に背負っていた量が多いほど爆風の広がりも大きくなっていく。

そしてその爆風は近くにいる他の人間のそれにも誘爆していく。

さらに厄介なことに完全に定着した爆弾は、何度爆発を繰り返してもその体から取り去られることはない。

つまり重い爆弾を背負っている者ほど、他人に、そして自分に絶えず怯えながらずっと暮らしていかなかればならないのだ。

 

 

 

きっと逃げ場なんてないのだろう。

辺りを見渡してみればどこを向いても、道端の石ころと同じように恐怖はそこに転がっている。

結局、今も昔も何も変わっていない。

誰に知らされることもなく。

一秒たりとも休むことなく。

戦争は今も続いている。